歴史
○ 中島病院 旧本館 (現:城西浪漫館)
建築は、大正から昭和にかけ多くの名建築を手がけた、津山の名棟梁 池田豊太郎氏。
昭和50年頃まで診察に使われており、1階には、診察室・待合室・処置室・検査室など、2階には、応接室と病室があった。
当時は別棟にレントゲン室も置かれていた。
○ 中島琢之像と旧本館
中島病院創始者の中島琢之は東京帝国大学医科大学医学科(現:東京大学医学部)を卒業後、日本医学専門学校(現:日本医科大学)内科部長を辞し、看護師2名を伴って、医師である父、中島大次郎の後継者として帰津した。
病院には人力車が列をなすほど患者さんが詰めかけたが、琢之は研究などで再度上京の意思を知人に漏らした。
それを聞いて、「せっかくの名医を失っては大変」と、妹尾銀行頭取の妹尾順平氏の発案で約5万3千円を借入し、旧本館は完成した。
琢之はその後10年かけ、建築費を返済したが、その際に『これで東京にでるチャンスを失った』と冗談交じりに話したそう。